「母乳の売買」事件に接して考えたこと②

 院長です。前回は母子健康手帳の変遷を通して、日本における育児支援の流れと、育児という本来は楽しくあるべき親子の自然な営みが、健診の場で医療者が行う指導によって逆に傷つけられてしまうことがあるという現実に触れました。一度定着してしまった、正しい育児を医療者が親に教えるという関係が、今もなお残っています。その上で、日本における母乳育児支援について考えてみたいと思います。
 生後1か月健診時の母乳育児率(母乳だけで育てている人の割合)は、1960年に70.5%でしたが、1970年には31.7%まで低下しました。1980年には45.7%まで回復しましたが、その後20年以上変化のない時期が続き、2010年に51.6%とようやく半数を超えましたが、2013年度の調査では47.5%となっています。母乳育児率の低下と軌を一にして、日本では分娩場所の変化がみられています。1950年には、分娩の約95%が自宅で行われていましたが、その後施設(病院、診療所、助産所)での分娩が増加し、1960年に自宅分娩と施設分娩がほぼ同じ割合となり、その後逆転し、1970年には分娩の90%以上が施設分娩(病院と診療所がそれぞれ約40%、助産所が約10%)となりました。現在では、助産所での分娩は1%、自宅分娩は0.2%くらいで、ほとんどの分娩が病院か診療所で行われる状況となっています。このようにしてみてみると、日本の高度成長期に起きた分娩場所の大きな変化に伴って、母乳育児率の低下が起こっていたことが分かると思います。分娩が医療の対象となり施設分娩が増えるに従い、一人の助産師が妊娠中から出産後まで継続して母子に関わる体制が無くなっていき、母乳育児支援においてもそれぞれの時期に関わった医療者が行うようになったことで、支援の継続性が無くなってしまったことが主たる原因ではないかと思います。母乳で育てることが当たり前の時代から、人工乳で育てることもまた良しとされ、「母乳で育てることは大切です。でも母乳にこだわってはいけませんよ。」という言説が当たり前に行われるようになり、現在に至っています。
 今回のような事件が報道されるたびに、「母乳信仰」「母乳育児を無理強いすることは良くない」「ミルクでも大丈夫」「母乳かミルクかはお母さんに選んでもらいましょう」といった、まるで母乳育児を勧めることが良くないかのような論調が沸き起こります。母乳育児を支援すべき産科医・小児科医や助産師・保健師でさえ、同様の考えを述べられる方が多いのです。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。日本にカンガルーケアを導入された聖マリアンナ医科大学名誉教授の堀内勁先生は、「母乳育児支援のポイント」という論文の中で、次のように述べられています。以下に一部をそのまま引用します。
「母乳育児を推進するには、①妊娠から出産そして産褥入院中までの支援、②退院後から1~2か月の授乳・哺乳の確立までの支援、③その後の離乳開始までの支援、④離乳食と母乳の両立期の支援、⑤卒乳の支援が大切である。要するにそれぞれの時期に適切な支援が受けられないことが母乳育児を阻害することになる。もう一つ大事なことは社会的な因子であり、それは人々や社会通念の中に根深く巣くってしまっているだけでなく、産科医・小児科医、助産師、保健師、栄養士などの小児栄養にかかわる専門家にももたれているものであり、母乳育児にこだわらなくても子どもは育てられる、母乳育児を進めすぎると母乳育児をしなかった母親を傷つけるという偏見である。  社会的な因子としては、たとえば、公共施設での授乳室のマークがほ乳瓶であること、厚生労働省の指導の下に作られた「お父さん育児ですよ」の表紙に父親がほ乳瓶でわが子に授乳している絵が描かれていること、育児雑誌や産科・小児科・助産師に向けた商業誌にもかわいい赤ちゃんのイラスト入りのミルク缶の宣伝が載せてあること、「ママ代行ミルク屋さん」というほ乳瓶でくわえ呑みさせる器具が大阪サンケイリビング賞を受賞していることなど、私たちはいつの間にか母親がわが子に自らの乳房からお乳を与えることが当たりまえであるという感覚を奪われてしまっている。極端なことをいうと、こうした知らない間にあらゆる社会的背景が育児という親子にとっての相互的営みが、飼育に近い感覚に変容してしまっているのではないかと危惧している。母乳育児をしなくても子育てができることも事実である。しかし、実際には母乳育児をできるはずの親子に対して私たちの支援が不十分なために人工栄養・混合栄養となってしまっていることがいかに多いかを母子保健に関わる専門職はもう一度考えてみる必要がある。母乳育児ができない最大の要因は適切な支援が不十分であり、できなかった責任を専門家がとるのではなく、母親の責任に転嫁していることで生じている。母乳育児は母親に押しつけるものではないが、だからといって支援を手抜きして、すべて母親の責任とすべきものでもない。」(小児内科 vol.42:1609-1613,2010)

 時代が変わり社会状況が変容しても、根底にある大切なことは変わりなく存在し続けるものだと思います。それは母乳育児についても同様であり、出産前の母親の9割以上が母乳で育てることを希望しているという事実は、ヒトが自らの母乳でわが子を育てることの大切さにほとんどの人が気づいているということを示しているのではないでしょうか。今回のような問題が起こるたびに繰り返されている、母乳育児推進派とそうでない人に色分けして議論することは、実は目の前のお母さんと赤ちゃんに真剣に向き合っていることにはならず何ももたらさないということに、私たちは気づくべき時に来ているのではないかと思います。
 堀内先生が述べられている通り、母乳育児を支援する上では妊娠中から卒乳までの継続的な支援が必要であり、これまでの経験を通して私自身もそれを強く感じているところです。同時に、社会通念という壁の存在もまた常に感じるところであり、それが一度に変わることは無いだろうと思っています。妊娠中から卒乳まで、それぞれのお母さんと赤ちゃんに向き合い、継続した支援を提供しなければと改めて思います。そういったひとつひとつの経験の積み重ねが、いつか大きな流れに変わってくれることを切に願っています。 (2015.8.1.)